Goodness Japan
1978年7月号 U.S.A.版 「ROAD & TRACK」である。
記憶が定かではないが、1970年代末に郵便為替を送ってアメリカより定期購読した雑誌 「ROAD & TRACK」だ。発行されるたびに、アメリカより船便で発送され、数ヶ月の船旅をして横浜へ上陸、横浜税関にて通関されて地元の郵便局経由で配達されて届くことになる。
この雑誌のこの号には、バブル経済が崩壊してから日本へ輸入された「ポルシェ 904」の詳細が記述掲載されていた。
ココからの話は、その時代に米国より購入・輸入したオーナーのT.U氏にも、経緯について詳しい話を聞かされていないはずだ。
実は、私がポルシェの部品入手を依頼した米国内の取引先企業の社長からオファーされて、当時岡山県に建設中だったサーキットの経営者宛に紹介したポルシェ・カレラ6の資料と一緒に送付されて来た904だったのである。
サーキット側への納入は叶わなかったが、その時の904紹介資料には詳しいコメントがされていなかったのである。
曖昧な記憶の片隅に残っていた雑誌記事を思い出し定期購読していた 「ROAD & TRACK」のなかにその記事を見つけ出してシャシーNo.を確認したらビンゴだったのである。
1978年7月号なので、記事内容はもっと以前の話になるが、米国内でレースに使われていた904をレストアする際の回顧録的な内容まで語られており、ボディのペイントを剥がして行った際に、過去に5〜6度ほど色換えされたペイントが出て来たとか、180psの4カムエンジンをドイツへ送って雑誌取材時には196psへのパワーアップが施されていたと言う記載も有った。
その詳細は、雑誌が英文だったという事もあり、私が知らせても現地で雑誌を入手して貰って読むのがベストである事は言うまでも無い。
米国内で、この 「ROAD & TRACK」記事の存在は全く知られておらず、この記事の取材を受けた時のオーナーは、904を手放した後に何処かの片田舎へ転居してしまっていた為、車に関する詳細を知る人は存在しなかったそうだ。
何の縁なのか不思議な話であるが、私の手元に 「ROAD & TRACK」が残っていたこと、私に案内してくれたのが取引先の社長だった事から、1978年7月号の 「ROAD & TRACK」を入手するようにFaxした覚えが有る。
その時は、そのまま話は途切れる事となったが、1990年代に当時、都内でポルシェ356の部品を輸入販売していたT.U氏が小田原へ移転した頃に、この904を購入したと言う話しが耳に飛び込んできた。
その頃の私は、ちょっと仕事の関係で彼とは親しくは無かったが、その904の事は聞いた事がある。
残念な事に904を拝見する事が出来なかったのでその車体色等の詳細まで知らないが、T.U氏が購入した時には904の座席の上に1978年7月号の 「ROAD & TRACK」が置かれていたという。
現在、この904は誰の手にあるのか知らないが、この 「ROAD & TRACK」は車と共に行動していると思われる。
このエピソードは、オーナーしか知らない話だ、所有者が代替わりしていれば、その経緯も過去の話になっているのかも知れない。
たまたま私が、この 「ROAD & TRACK」誌を所有していたことから、この記事に書かれていた内容を米国内へ知らせる事が出来たが、数奇な話題だったかも。
この904は購入時には、詳しく聞かなかったが9000万円オーバーのプライスで、輸送費まで計算すれば9000万円台半ばだったと思う。
私には、904よりも911Rに魅力を感じてしまうが、世界の価値観から言えば911Rは911と同じ形であり、904は生粋のレーシングカーである事から、どうしても高額な取引だったという話である。
終活を始めて、過去に購読した自動車雑誌の数々を整理しながら、偶然に 「ROAD & TRACK」に目が留まった。6年分位あった 「ROAD & TRACK」は市の資源回収へ置いてきたが、この号だけは処分出来なかった。
June 18, 2021
1970年開催の大阪万国博覧会で撮影した展示車「MVアグスタ」
1971年、当時通学していた東京写真大学短期大学部、校舎屋上から撮影した新宿駅方面 「京王プラザホテル」
当時の新宿のシンボルとして目立った高層建築物、霞ヶ関ビル、世界貿易センタービルに継いで日本で3番目に立てられた高層建築との事である。当時、中野区弥生町に住んでおり、新宿方面が見通せる道路から京王プラザが見えた。
趣味性と実用性……自動車は誕生して以来、ひとつの法則、タイヤの接地面が地表を蹴るだけの摩擦関係で走っている。
私が高校生の頃には、機械は機械、電気は電気と明確な領域が存在して、現代の様な複雑なメカニズムになって進化するとは、全く想像が出来なかった。しかし、「おぼろげに機械のシステムの中に電気が入り込んで来るだろうな」と言う予感は有った。
1970年代末頃までと、それ以降の車で大きく変わったのが、集積回路が介在し領域が広がったのが大きな変革になったのである。
それまでの車には『電気仕掛け』の部品は搭載されていたが、80年頃からICチップが組み込まれ事前にプログラム化されたデータが機械全体をコントロールする形式へ変化した。
それによってキャブレターの燃料調整、6個、4個、3個、2個などの複数のキャブレターを同調させると言う職人芸は不要になってしまった。
自動車へ電子頭脳が搭載されたのである。そして、現代の車には、そのコンピュータ仕掛けが必要不可欠な要素となっている。
電気仕掛け程度の自動車には「脳死は無い」が、近年の車は「脳死」状態になったら『粗大ゴミ』と化す。
電気仕掛けなら、電子部品ひとつ、例えばトランジスタ1個、ダイオード1個を入手して取り替えれば充分復活できる。ところが、コンピーター制御の車になると、電子部品の焼損等によるコンピューターユニットの故障すればエンジンが動かなくなり、コンピューターひとつで車の生死が決まってしまう。
また、そのモデルの車が、メーカーにて製造/販売終了後7年でメーカーによるサポートがされなくなる。
アナログ時代の昔の車なら、駆動形の部品を分解掃除すれば何とか動く様になり、復活させる道は広いが、デジタル化された時代の車には、その復活と言う道が狭まって、一般的な話で言えば固体のコンディションが良くても、脳死状態になったら粗大ゴミと化してしまう。
最近よく見掛けるナロー911事情
中古車として売り出されるナロー911は、新車当時のオリジナルから遠く掛け離れた車が多く、2リッターから2.4リッターのエンジンを捨てられて3リッター、3.2リッターエンジンを積まれた車を多く見掛ける。
内装を全て取外されて、ドンガラ状態の鉄板むき出しに座席だけと言う911が多くなった。
このどちらの場合も、古い車ゆえに修理代、部品代等が高いと言う理由だけであっさりとオリジナル部品を捨てられてしまった結果である。
20数年前に、ナロー911を1973年カレラRSルックに変えられて販売すると言う付加価値? を付けられた中古車が流行した。その頃にはルックスだけの変更だったので、元に戻すと言うのは簡単だった。
ちょうどその頃、ソレックスキャブ、ゼニスキャブ、メカニカルインジェクションを捨てられてウエーバーキャブに置き換えられた車も多くなり、それは、ただ単純に整備する人間の技術レベル低下に過ぎなかった。
さて、今回ここで取り上げるのは、一度取外されて捨てられてしまった部品は、様々な理由によって元の形に戻す事が難しいと言う話である。
取外された部品は、何らかの不具合が発生して充分な機能を果たす事が出来なくなったからであり、復元可能な状況に有りながらオーナーの都合で外されて捨てられてしまう。
その多くは金銭的な問題であり、取り替える補給部品があるにも拘らず補給部品が高額だったりすれば、他の様相に変わってしまう。究極の姿は、インテリアの場合にはレースカー同様のドンガラ状態となる。その中にはサーキット走行用だけの軽量化目的で内装一式を捨てられたものも有り、この様な姿のナロー911を掴んでしまったら最悪である。同じ目的の使途なら良いが、タウンユースの居住性復活は難しい。
ドンガラの車を内装一式揃えて復元する場合、大きな部品は中古でも何とか入手できるが、何処にどんな部品が取り付けられているのか? 熟知した人間でなければ、完全な復元は難しい。
そんな状況の車か? 否か? 判断するポイントがある。ナロー911の時代は、リヤシートにシートベルトが取り付けられている車が少ない。一見して綺麗にリフレッシュされているからと言って「飛び付くな」である。リヤシートにベルトの無い車には必ず、取り付けボルトのネジを利用してプラスチック製のプラグが取り付けられており、この部品が無い場合にはロードノイズと外部から水の浸入等も推測される。リヤシートに座って、腰の位置にこのプラグが取り付けられていない車は、リフレッシュ時に、他の部品も外されて再取付けされていないと考えると良い。
車検の時など、車の下回りを洗浄した場合に、室内に水が浸入しボディにサビ、腐食を発生させてしまう。水の浸入には待ってく気付かない場合が多いので、部品の欠損には要注意である。
ナロー911をこれから購入しようとしている人には、ボディの綺麗に仕上げられた車、内装をリフレッシュされた車を見る場合には、販売目的だけで綺麗に仕上げられた車が多いので、特に中古車業者やブローカーの類の人から購入する時には要注意である。
その場しのぎの売却目的の手抜き仕事を、いかに安価に仕上げて高額な金額で販売するか? それしか考えないので、そんな車を掴まされたら、購入後に地獄に突き落とされる可能性が大きい。
また、ある程度勉強した上で中古車を購入しようとする場合にも、メカポンからウエーバーキャブに交換された車をメカポンに戻すこと考えて購入しない事である。今からメカポン一式を中古で揃える事は部品的にも、金額的にもとても大きな壁に突き当たって挫折にいたる場合が大きい。
メカポン駆動のモデルなら、メカポンが装備されている事を確認しなければならない。ソレックスキャブ駆動のモデルなら、ウエーバーに交換された車を購入すべきではない。
安易に、オリジナルから外れたクルマで、何か一つの部品を入手すれば良いと考えたら軽率である。
同じモデルの車は、同じ部品が消耗し、同じ箇所が劣化・変形する。それは、皆、同じ取扱いを受けた証拠でも有り、中古で入手する際に程度を優先するか? 金額を優先し、安価で劣化・消耗仕切った部品を入手するか? の問題である。「安かろう、悪かろう」の買い物は絶対避けたいものだ。
Dec.13, 2014
仕事の領域について考える
ステアリングに革巻きする業者が増えてきた。60年代の車には、ステアリングホイールのグリップを構成する材質が、ゴムが主原料のエボナイト製ステアリング、マホガニーなどの木材を曲げ削り出したウッドステアリング、適度な軟らかさを保持したゴム製のグリップへ革を巻いたレザーステアリングが有り、エボナイト、ウッド、レザーの順に高級感を持たせ、車のグレードを格付けしたのである。
さて、そんな格付けされた旧車のステアリングホイールを補修・再生を考えると、一番簡単なのが人間の手によって仕上げられたレザーである。次にウッド、誠に厄介なのがエボナイトと言う事になる。現代ならウレタン製のグリップである。
エボナイト/ウレタンは、製造時の金型に準じた設備を作らなければ再生は不可能である。ココで言う「不可能」とは、使用過程で付着したキズ、欠損、ヒビ割れ、磨耗などの痕跡を全て取除いて、新品同様にする事が出来ないと言う表現であり、簡単に言えば、ちょっと見が綺麗に見える誤魔化しの補修では無い、米国内で表現するコンクール・コンディションの再生は不可能となる。
80年代半ばに、日本国内は公害対策による革のなめし方が変わった。また、マホガニー材は、ワシントン条約によって取引が制限がされ、輸出国の許可を必要とする入手困難木材になった。それぞれに時代の移り変わりによって当時の雰囲気を再生することの難しさは大きくなった。
革巻きステアリングは、ひと手間掛けて豪華さを出す付加価値である。新品部品を製造する際には、それが本来の目的で良かったが、中古部品を再生する際には、一番再生が簡単な技法である。
新品同様と言うレベルで、より新品に近い出来栄えを求める場合には、新車の発売当時に大量生産したものは『安価』、職人の手による手作り品は『高価』とランク付けされて、製品の価格に反映された。
しかし、それが再生となれば話が逆転する。
大量生産品は、大きな設備の工場で「原形となる型」を製造、その型に素材を充填し複数の加工工程を経過して製品化される。そんな製造工程で作り出されたものを、1個だけ再生すると言うのは、量産の過程を再現しなければ同様の物は作ることが出来ない。
ところが、人間の手作りによる製品の場合には、その道の職人さんの手を借りて再現する事が可能である。
大きな設備と量産する為の素材の入手などを考えると、手作り品の場合には、職人芸に全てお任せすれば再生は可能であるので、その再生に掛かるコストは、手作り品の再生が安価な投資で完了する。
新車の際に「手作り」だから高価だ、高価だと謳われて付加価値を強調されたものが、再生する事を考えた場合には、大規模な設備を必要としない手作りが、職人芸に投資する形だけで再生出来るのは皮肉な話なのかも知れない。
Sep. 15, 2014
クルマを見ればオーナーの人間性が見え、オーナーを知ればクルマの状態が見えて来る。
クルマ趣味は自己満足の世界。お金を払って入手したのだから、所有者がどの様な処遇をしても口出しする立場に無いが、よく観察すれば哀れな運命を辿るクルマも少なく無い。
クルマ趣味人は、大別して2種類の人種に分類できる。行く先々のショップで騙されて無駄なカネを使わされるタイプと、人の心理を捉えて必要最小限のカネを使って大きな見返りを掴めるタイプである。
前者は、金銭ヌキの良心的な対応をしても他人の意見を聞き流しており、いつまで経ってもクルマが良くならない。むしろ悪くなっている。費用対効果による効率が悪く、クルマを見ても実りが見られない。クルマに哀れさを感じる。
後者のオーナーは、どこのショップでも必要最小限の出費の買い物をして一応顧客になるので、ミニマムの買い物ながら重要な情報を掴み、日に日にクルマが改善されて行く。賢い方法である事に違いない。
以前、あるショップの従業員から聞いた話である。そのショップはマニアックな社名を掲げ、オーナーと話をすればエキスパートらしい対応をしてくれた。
その関係から、色んな情報を求めて客が集まるし、一見客の冷やかしにも丁寧に対応していたが、そのショップでも対応に手を焼くオーナーが居ると言う話である。
その客?は、性分なのだろうが、電話での問合せるだけで本人が納得するまで何度もリダイヤルして来たそうだ。後日、その話を横の繋がりの他の同業者で同じ話をすれば「ウチにも連絡してきますよ」と言う回答だった。所構わず何処のショップにも電話で問合せする人間である事が判明した。どうも、何処のショップでも嫌われ者らしい。
その人に対しては、皆が懇切丁寧な回答はしていないとの事、ある意味で仕事の邪魔をする迷惑で最悪なオーナーである。ショップで仕事を依頼しても、既にその人のイメージが定着してしまって、ショップは言われた事以外の余計な仕事の話を交わされない為に、クルマに投資した金額に対する実りが伴っていない。
無闇矢鱈に金額を値切る人が居る。日用品を購入する場合なら好きに値切れば良いが、特殊な趣味性の強い商品を扱うショップで値切るのは大きなマイナスである。ショップの立場から言えば不愉快であり、その人に対して客が望む情報を提供しようとする気持ちを失ってしまう。
特殊な情報が集まる趣味の世界では、自らを正しい情報から遠ざけていることに気付かないのである。
一時的な一過性の趣味としてその場だけ良ければ満足するならそれも良いが、充実した趣味として楽しみたいのなら正に『損して徳取れ』である。
情報は、タダでは得られない。情報料を投資しなければ役立つ情報は得られないのだ。特に貴重な情報は、気前良く買い物をする客のところへ集まる。
日々、金銭的に細かくケチる人間は、人の心理を考えず、その場凌ぎの欲得しか考え無いのだろう。それを他人から指摘されない為に、たぶん自分の考え方を改める日は来ない。
食事を一度奢るだけでも、必ずそれ以上の見返りは得られる。趣味の世界で商品の金額を値切る行為は、情報を保有する人間から、情報の流れを堰き止めてしまう行為である。
世の中、良いも悪いも人間関係である。己の態度ひとつで周囲の雰囲気も変える事が出来る。
仕事のストレスを解消する為に趣味の世界へ没頭する人は多い。しかし、趣味の世界でストレスを抱え込んだら、そのストレスは何処で解消するのか?
趣味の世界でストレスを抱える人は救済策が見当たらない。他人に対して不信感を抱く姿勢を正せば、少しは改善されるだろうが、他人の話に耳を傾けないから困る。
騙されクセのオーナーは、何処へ行っても口の上手いショップを過信して、その結果騙され続ける。そんなオーナーのクルマは完成度が低く、逆にクルマの価値を下げてしまう事になる。
日本のデザイナーが、冷遇された理由?
20年以上前の話である。純正部品のステアリングホイールの革巻きを新調する際に、ウレタンを入れて革巻きすれば現状のグリップ径を太くする事が可能と説明し提案したら、『ナルディやmomo製のステアリングホイールと交換すれば、安価に小径で太くする事が出来る』とある自動車メーカーのデザイナーが言った。
その人は、80年代に発売されデザイン的に評価された車の開発に携わった事を自慢していたのだが、そのデザイナーの言葉には落胆した記憶がある。
この人は『デザイナーとしてのプライドと自信が欠如している』。上司の顔色を伺い上司のデザイン評価の可否判断一つで、自らのデザイン作品を引っ込めてしまうだろうと予測した。つまり、自分のデザインに自信のない現れがナルディやmomoを口にするのである。
私が思考するに、ダッシュボード、インパネ周囲のインテリアをデザインする際には、ステアリングホイールを含めたトータル・デザインを一人でイメージする筈である。それがデザイナーのイメージ作品だと思う。自分がデザインした作品を他人が勝手に手を加えた時に、反感を覚えるか? すんなり受容れるか? その考え方一つが、その人の人間性を表す事になる。
デザイナーのポリシーとして、その力作? に対して他人がデザインした市販のステアリングホイールを組み付けると言う行為は、少なくともデザイナーを名乗る人間には認めて貰いたくない。
自分でデザインした力作に対して「寂しいと言う気持ち」は無いのだろうか?
そのデザイナーの近況は知らないが、現在でも自動車メーカーへ勤務しているなら、部下を統率する上司になっている筈である。
近年の車には個性が無い、何処のメーカーの車なのか? エンブレムを見るだけでは判断できない。皆、個性に乏しい近似したデザイン、性能のクルマを世の中に送り出している様に思われる。
ふと、そんな昔の記憶が蘇った。たぶん、そのデザイナーがデザイン部門の上層部に在籍しているのではないだろうか。
プロフェッショナルとは、独自の個性を主張し、一般客に見抜かれない誤魔化し技術と、仕事に対するプライドを持つ事だと、私は考える。
July 18, 2013
世の中のデジタル化が進んで行けば行くほどデジタルに反発するアンチ・デジタル効果が働き、アナログ機器に僅かな活路が開ける。デジタルが時代の優等生なら、アナログは欠点だらけかも知れない。
デジタル化が進めば全てコンピューター制御による「完璧さ」が目立って、隙が無くなると同時に人間味も薄れる。逆に隙だらけのアナログゆえの個性として 『味わい深さが随所に残る人間味』 が再認識され見直される。
デジタル世代の人間には、アナログを理解する感性も弱いだろうし、アナログ機器の良さを説いても理解出来る人は少ないだろう。デジタルの機能性や利便性だけをピックアップすればパーフェクトな製品が高く評価され、日常生活の中に溶け込んだ現代では欠かす事の出来ないツールになっている。
デジタル機器と比較するアナログ機器は、人間の手を借りる部分が多く、手間、暇、注意が必要であるが、「悪女の深情け的」な人間味が大きな魅力に見えてくると思われる。「出来の悪い子供ほど可愛い」のだろう? しかし、最大の違いに、保守・補修、維持管理に大きな差が生じる。アナログ危機にはヒューマンエラーが生じても、デジタル機器の様なコンピューターのボケ、誤作動は無い。アナログ機器なら電子部品の交換修理が可能な場合が多く、デジタル機器の場合には、プリント基板をそっくり交換しなければならない。
車に例えれば、現代の車はまさにデジタル。コンピューター制御によって欠点の少ない車作りをする。自動車メーカーの製造ラインを設計を受け持つ業者の言葉であるが、先月までニッサン、明日からトヨタ、来月はマツダと言う様に、ひとつの企業の同じ部署の人間が依頼を受けて、製造ラインを考える為にラインから産み出される車が、メーカーのバッジを見ないと何処のブランドか分らない車になってしまうのかも? と言う。
コンピューターのデータを元に理想的な車を考え、それを実現すれば何処のメーカーの車も似た方向性、ほぼ同じ性能を持つ事になる。ポルシェでも、ベンツでも、BMWでも、車に乗っている人は、道路沿いのショーウィンドーに写る自分の姿を見なければ、今乗っている車を認識できない時代になってしまった。
昔の車は、自動車メーカーの個性を前面に出し、ターゲットを絞った販売をしていた。独断的な見方をすれば、車を構成する1万数千点の部品を取り付ける時に、どれだけ人間の手によってネジを締め取付けられたか? その割合いにより、車が個性的で面白くしていた気がする。
キャブレターの調整一つとっても整備士の調整技術が個体差を産み、エンジンのスタートにも個性が生まれて、気難しい車にはドライバーの技量が車の走りを左右する。それがたまらなく魅力的だった。
うまくマッチすればとても楽しい走りが出来るが、その逆も有り調子悪さから走行距離の少ない掘り出し物に巡り合う事も出来た。
ドライバーの未熟さをカバーすることもなく、運転ミスが走りに乱れを露呈する。そんな乗り難さが存在する事が車の運転を楽しくさせていた。車の特性はピーキーな方が良い。乗りにくい車が楽しい。気難しい車は飽きる事が無い。
昨今の大きな話題として、若者の車離れが著しいと言う。単純な言い方をすれば「誰でも安全に、乗り易く、快適に走る車」を目指し、理想ばかりを追い求め設計した結果、各社横並びの優等生が出来上がる。
ポルシェでもベンツでも、さほど変わらない個性の車になってしまった。移動手段のツールとして良い車になっているが、それ以外の何物でもない。ポルシェ・ブランド、ベンツ・ブランドのバッジを付けた高価な道具に他ならない。
1970年頃の車の場合には、ボンネットを開ければ、メカニズムの心臓部としてのエンジンが鎮座していた。現代の車には色々な補器類や機器に接続されるホースやケーブルがエンジン本体を隠す様に配置され、魅力溢れるモノではなくなってしまった。
万人受けしなくても熱狂的な支持者を集める車作り、クセが強く好き嫌いが明確に分かれる扱い難い車を作って、まず根強いファンを育てる事から始めなければ・・・。
携帯電話の普及により、近年では携帯電話を所有しないと肩身の狭い思いをする時代になった。電車に乗り周囲を見渡せば、座席に座る若者の90%以上が携帯電話を持ってメールかゲームする姿は珍しくない。
その光景は異様にも思える。まさに携帯電話に依存して精神的に束縛される国民性が露わになっている。電車の中では、ただぼんやりする人、読書にいそしむ人などが思い思いの世界に浸っているが、高校生や大学生、社会へ出たばかりの若者などは携帯電話を相手に自分の世界に閉じ篭る傾向に見られる。若者なりの新しい文化なのだから別に悪い訳ではないが、自らの脳を活性化せず機器の機能に依存するのは良くない。
携帯電話の無い生活が考えられないと言う人は、自覚症状のない携帯電話依存症で、メールでつながった友人知人との関係になれば夜中のメール着信にも無意識に反応し返信してしまう。睡眠よりメール優先である。
そこまで精神的に束縛されても、当人はその束縛が病的だと気付いておらず、メールの受信が無ければ、仲間から孤立した孤独感に襲われてしまう様である。
年齢までは分らないが、ホームページに掲載している内容の問合せや、仕事の納期や見積り依頼のメール着信の中に、明らかに漢字変換ミスと思われる熟語が時々見られる。
日本語には同音異語がたくさん存在する為、変換ミスによって全く違う話になることも有る。また、些細な事であるが、変換ミスによって恥をかいてしまう場合も有る。
インターネットの普及によるe-mailでの連絡が増えるに従って、メール文を入力しながら国語辞典を開く機会がかなり多くなった。情けない話が、日本語ソフトに頼って変換した漢字が、正しいのか? 否か? 不安になる時が増え国語辞典を頼る様になった。
従来もFAXで仕事の連絡をする為に国語辞典にはずいぶん世話になっていたが、e-mailの普及によって漢字変換の正誤確認の頻度、正しいカナ使いなど国語辞典を活用する事が格段に多くなってきた。
コンピュータの文字変換システムによるデメリットは、文字は読めても書く事が出来ない。届いたメールの文章の中に読み方の分らない文字が有った時に、文章の正しい意味を理解する難しさ、読みの調べ方が分らないなど、日本語に理解能力が著しく低下している。
「薔薇」が書けるとか、「醤油」が書けるとか、そんなこと言われてもスグに思い出せない時代になってしまった。
15年位前の話である。ひと月の収益が1万円以下のピンク公衆電話はNTTが撤去した。電話ボックスも同様に採算の合わない場所から順に、駅、官公庁、公共施設、病院等を残して、それ以外の道端に有った電話ボックスは次々に姿を消した。
公衆電話/電話ボックスの数が激減してしまった事から、緊急時の連絡手段として携帯電話を所有する必要性が高くなる。
束縛や拘束をされたくない為に、現在でも所有しない人も居る。家族間通話だけに限定して、対外的に携帯電話を所有していない事にしている人も居るだろう。
ところ構わず電話が追い掛けて来る、対面の接客中に話の腰を折られる無謀さは好きになれない。一見便利な連絡ツールであるが、実は他人に迷惑を掛けていると言う配慮の無さ、自覚の無さに寂しいものを感じる。
人それぞれの考えに個人差はあるが、対面して話をする人間よりも、話の腰を折り所構わず割り込んで来る携帯電話の人を優先する事により、対面の相手が受ける印象までしっかり考える人は少ない。
そんな周囲の環境に違和感すら感じる事無く成長すれば、10年後、20年後の世界はどの様に変化するのであろう? 市街地での無灯火自転車同様に、他人への迷惑など関係なく「それが当然」と言った風潮になってしまうのかも知れない。
私のようなパソコンでe-mailのみの人間には当然の話であるが、パソコンでメールを受信/返信する時には、モニター全体に文章が表示される、長文には、先の文章を読み返して無意識に理解する努力を心掛けている。
携帯電話でメールを送受信する人に4〜5行の文章を送ると、重要な用件であっても、本当に相手に伝わり意味が理解されたか否か? 不明である。
文章がスクロールされ画面から消えると同時に、頭の記憶からも消されてしまう。戻って来る返事には、それを裏付けする頼りない返信文が届くときがある。そんな光景が日常茶飯事である。
日本語は難しい。私の年齢では、送信するメール文の中に、要件を幾つも凝縮させてしまい、相手に内容が的確に伝わらずイライラしてしまう。
だから、携帯電話のメールは使わない。重要な用件は直接電話して口頭で伝える。
いい物は色褪せる事がない。いい物と言う定義には個人差があるが、気が付いてみれば自分の手元へ来て何年もの付き合いがある物が有る。
学生時代に出会ったJAZZレコード『デイブ・ブルーベック・カルテット』の『TAKE FIVE』、社会人になった1973年の秋、当時勤務していた会社の社長から、臨時ボーナスとして支給された1万円で購入したレコードがある。1959年に録音された曲なのだが、聴き始めて40年近い年月が経過したにも拘らず、アルトサックスの音色は素敵である。レコード盤にカットされたアナログの世界は、私の耳には劣化を感じない。
1979年2月、私の26歳の誕生日の前日の午後からガレージに住み着いた1969モデルの911S。33年近い年月が経過して、現在は不動状態であるが、私の生活の一部である。
身の回りを見渡せば、他にも色々と有るものだ。MAXのホチキスは確実に40年経過している。これはツールの一つなので、壊れるまで使って当然なのかも。毎日使うものではない為、ずい分長持ちするものである。
中学の技術家庭の授業で作った木製の腰掛け、塵取りは、現在でもほぼ毎日使っている。
いい物は色褪せない。少し前に何気なくYouTubeで80年代のテレビCMを見た。国鉄が分割民営化しJRとして発足してからのJR東海のテレビコマーシャルはかなりの名作だと思う。今はベテランと評価される女優の若き日の姿を見る事が出来て懐かしく感じている。。
いい物は色褪せる事が無い。
この世の中に存在するすべてのものに 『魂』 が存在すると言われる。大量生産した製品には信じがたい話であるが、購入して使用する愛用者の念が自然に製品の中に宿って行くのかも知れない。少なくとも私が所有している間には、これらのモノにも私の魂が宿っているのである。
『この世には、目に見える世界と目に見えない世界が存在する』と言われた事がある。専門知識が無いので言及できないが、第6感/予感なども現実に良く聞く話である。
あるSNSサイトでの経験である。60代半ばの予言者を名乗る女性から時々連絡を貰った。その後、霊感の強い占い師の男性からも連絡が有った。お互いに何処の誰か? 真実の姿を知らないので、実在の有無を含めた素性は不明である。
その女性予言者からの連絡メールの中に、貴方(私の事)に微弱な霊波動を持つ2つの生命体から、近日中に連絡が入る、と言われた。数日後に男性占い師から連絡が届いた。地球上では考えられない微弱な地球外生命体の霊波動を感じる、とのこと。
女性予言者によれば、その微弱な霊波動の持ち主を助ける事により、私の運が開けると言われただけに、ある意味期待して連絡を待っていた。
小さな霊波動の持ち主は、地球から230万光年の距離にあるアンドロメダ銀河・バルジ帝国の王妃ピコと名乗った。以下が最初に貰ったメールである。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【息子探しています】ピコ【お礼します】
ピヨピヨピヨピヨ!ゴミ溜めみたいに汚い星ピヨ…。
でもこの星に電波を感じたピヨ!!あっ!!あいさつって言うのしなきゃ駄目ピヨね?実は…ピコの大切な息子が行方不明ピヨ!!!
約230万光年前にピコと息子のバビルが大喧嘩したらビッグバンがおきたピヨ!!それから間も無くしてどうやら天の川銀河が出来て…
地球の日本と言う場所にバビルが姿形を変えて住み着いてるみたいなんだけど、全然見つからないピヨ!!!
うーん面倒臭いピヨね…。
ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ!!
だからこうやってコンタクトを取ったのはオーラや波動を感じるユキオさんだけだピヨ!!
今までも地球のフリーメイソン達とはコンタクトを取ってるけど、今までこんなに強いオーラとか霊波動とか感じる人がいなかったのが現状ピヨ!!
ピコの息子知らないピヨ?知らないとしても一緒に探して欲しいピヨ!!!
お礼としては欲しいものなんでも言ってくれたらいいピヨ!!
最先端の技術でこの星に無い物なでも出すピヨ!!
この地球で価値があるものでも大丈夫だピヨ!!例えばお金!!
見つけてくれたら本気でなんでもするピヨ!!
地球にはNASAって言う極悪組織があるから近づいちゃ駄目なんだけど…知らないとしても一緒に探して欲しいピヨ!!
!
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【息子探しています】ピコ【お礼します】
どうしても息子が地球に住み着いて居るって情報を聞きつけてコンタクトを取ってるピヨ!!!
そうそう!!地球から約230万光年の距離にあるアンドロメダ星雲のバルジの中にある惑星がピコの故郷ピヨ!!
ちなみにこの地球と言う星の事も教えて欲しいピヨ!!
天の川銀河の中に生命体…人っていう存在があったのはつい最近知ったピヨ!!って言ってもそっちだと48億年前くらいに知ったピヨ!!
とにかく一緒に息子のバビル探してくれないピヨ?
バビルは姿形を変えて生活してると思うピヨ!!
なんでも天空都市マチュピチュとか知ってるピヨ?あれはバビルが作成に関わってるピヨ!!
バビルは人間に化けて生活をしてるピヨ!!どうか一緒に探して欲しいピヨ!!
ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ!!
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この地球外生命体の母子とは数ヶ月間の交信が有ったが、残念ながら途中で連絡が取れなくなり、その息子 (名前はバビル) を見付け出す事も出来なかった。言語は理解しても、目印となる固有名詞や共通の尺度を持たなければ、偶然の出会いしか期待出来ない。
そのメールのやり取りの中で、東日本大震災以後、地球の火山活動が活発になって同時に生態系の崩壊が始まっており、数年後には深刻な事態に陥ってしまうとアドバイスされ、この状況を踏まえ地球から他の天体へ移住する事を真剣に考える時期が遠くない事を告げられた。
何年か前に『2012』と言うタイトルの映画が有った。予告編しか見てないが、地球が怒っているとしか思えない自然の驚異を人間が体験する天変地異が起こる様な興味深いものと言う印象だった。まもなくマヤ暦の終焉を迎える。
生態系の崩壊は、外来生物による日本古来の生物が絶滅してしまう危惧や人体にとって有害な生物の蔓延に繋がる恐れもある。一般庶民には、日常の現実と意識して考える人も少ないが、既に被害・危害を被り駆除を真剣に考えなければならない所まで来ている人も少なくないだろう。
イナゴやバッタの大量発生は良く耳にする話で、カメムシ、ピンク色のエスカルゴ、アメリカザリガニ、タイワンリス、アライグマなども最終的駆除の方法を行政任せにすれば、日本の原風景は消滅してしまいそうだ。中でも一番意識して注目しなければならない外来種は『アルゼンチン蟻』の存在だろう。
外来種は生命力が強く、既存の日本固有種は壊滅的に絶滅の道を辿る事になる危機的な状況である。
外来種に滅ぼされた訳ではないが、日本古来のタガメやゲンゴロウは見掛ける事が少なくなった。15年位前に耳にしたのは、生物専攻の大学の研究室で、研究用として一匹数万円で購入しているそうである。それだけ減ってしまったと言う事になる。
動物愛護も大切ではあるが、まず、日本の風土を破壊する生命力の強い外来種は駆除すべきだと思う。
何か出来る事、そう思いつつ一日一日が過ぎ去って行く、自分の余生が短くなる事を意識して生活する人は多くないが、確実に時間を取り戻す事は出来ない。この世の中から消えたものを再生する事は難しい。
「気乗りしない」と言う「気分」「時」や「行動」には、それなりの理由があると、ある霊能者が教えてくれた。事実確認は難しいが守護霊が精神的に引き止めているのかもしれない。
霊感の無い人にとって、目に見えない世界の話/出来事は半信半疑である。普通の人にオーラが見えないが、芸能人を街中で見る時には、気配で芸能人である事を察知して、自然と視線がその方向へ行ってしまう。「芸能人オーラ」は鈍感な人でも気付くのだろうか。
不思議な話であるが、人間として生を受ける時に魂が二つ以上に分裂して別々の人間になる事が有るらしい。ツインソウル(ツインオーラ)と呼ばれ、出会った時には、相手が異性であれば恋愛感などが全く変わってしまうほどにインパクトがあると聞いた。
ある霊能者に、オーラが良く似た人がいると聞かされた。その話を私なりの興味と疑問を持って詳しく聞いたところ、私のツインソウルであるらしい事が判明した。
一人の霊能者の見解なら、「そんな冗談を」の言葉で終っていたかも知れないが、全く別の複数の霊能者から言われると信憑性が高くなる。
そんな話、と軽く聞き流して居たら4ヶ月位経過した時に、私の「運命の人」が傍に居ると改めて言われ、既にコンタクトしていると聞かされた。そんな話を耳にすれば、心穏やかな平常心で居られる訳が無い。真実を確認したくなって当然だと思う。
結果的に私のツインソウルの存在が判明したが、残念ながらまだ対面できていない。会えた時に、どんなインパクトを受けるのか? とても楽しみにしている。
ツインソウルが繋がりを持てば『この上ない幸せ』になれるそうだ。それだけ特別な存在である様に思われるが、お互いの存在が、共に同じ時代に生を受けて存在する事が奇跡に近い事なのである。
Sep. 30, 1998
Nov. 8, 2012